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プロフィール
HN:
りんでぃ
HP:
性別:
女性
職業:
スウィング ダンス インストラクター
自己紹介:
 東京でスウィングダンスのインストラクターとしてレッスンやイベントを開催していました。2012年、結婚の為ボストン郊外のNorth Shore へ世界一臆病な黒猫 ミキティと共に移住。

 ここではアメリカでの生活、ダンス事情、ミキティの様子、ふと思ったことなどを綴っていきます。
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今日は、アメリカの星条旗を制定した記念日、フラッグ・デーです。
アメリカの国旗は1777年に正式に制定してから、なんと27回も変更されているそうです。


1776年7月4日にイギリスから独立宣言をしたアメリカでしたが、独立後もイギリスの国旗が入った旗を使っていました。
 

左上にイギリスのユニオンジャックが


 
独立戦争時代には、イギリスが入っている旗を嫌だと国旗の変更が叫ばれていました。
1777年6月14日、当時のアメリカは13州であったために、海事委員会により「赤と白の13本のストライプと青と白の13個の星」と制定され、いわゆる”星条旗”が生まれました。
それにより6月14日は公式に国旗制定記念日 = フラッグ・デーとなり、第28代大統領 Woodrow Wilsonウッドロー・ウィルソン)により、祝日と制定されました。 *現在では、国全体が祝日になっているわけではないようです。


しかし上記の規定だけで、星の並び方などの設定は特に無く、多くの旗デザイナーが独自の旗をデザインしたという事でした。


Francis Hopkinson(フランシス・ホプキンス)がデザインした、6角星の星条旗



有名なデザインの中の1つには、Elizabeth Ross(エリザベス・ロス-ニックネーム”ベツィ”)がデザインしたものがあり、"Betsy Ross" flag (”ベツィ・ロス” フラッグ)とよばれています。



そんな中、5角星の配置を3列-2列-3列に変更した、現在のデザインに最も近いものが使用されるようになりました。



アメリカ最初の国旗と制定されているデザイン
 


1975年にはケンタッキー州とバーモント州が加算されて15州となった為に、星の数とストライプの本数を増やし、15個の5角星と15本のストライプとなりました。


800px-StarSpangledBannerFlag.svg.png
The Star-Spangled Banner flag”と よばれているデザイン




しかし15本のストライプは、遠くから見ると色が重なりピンク1色に見えてしまった為に、13本に戻したそうです。
現在は1960年のハワイ州加算を最後に、50個の5角星と13本のストライプとなっています。




こんなにもデザインが変わっていく国旗も、珍しいですよね。
日本の場合、日章旗(いわゆる日の丸)のデザインの出所は不明で、国旗の制定の法律は近年まで無く、公式に制定されたのは平成11年の1999年8月13日だそうです。
自国の国旗に関して無知だったのは恥ずかしいですが、この事実は結構意外でした。


 



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今日は、Memorial Dayです。

メモリアル・デーとは、アメリカの戦没将兵追悼記念日の事で、今日はアメリカ全土で祝日です。
かつて、南北戦争の兵役中に亡くなった人のお墓を追悼の意をこめて飾ったことから、Decolation Day(デコレーション ・デー)と呼ばれていました。

メモリアル・デーの起源にはいくつかありますが、ペンシルバニア州のBoalsburg(ボールスバーグ)は「我らの街こそが、メモリアル・デー誕生の地」と言っており、1864年7月4日に地元の女性達が、兵士のお墓を装飾した記録が残っています。

公式には、北軍陸海軍人会のジョン・ローガン将軍(General John Logan)が1868年5月5日に「デコレーション・デーを毎年 国全体で祝うべきだ」と宣言し、同年5月30日に戦死した軍人や政府高官などが埋葬されているヴァージニア州のArlington National Cemetery(アーリントン国立墓地)で初めての式典が行われました。
1873年にニューヨークで初めて公式な祝日とされ、1890年までには北の州全てが祝日と制定しています。

南の州は、独自に南北戦争の戦没将兵追悼記念日を持っていた為、第1次世界大戦後に「戦没将兵追悼記念日は、南北戦争のみでなく、全ての戦争の戦死者を追悼する日」と変更されるまで、北の州と同日に祝うのを拒んでいました。
しかし、現在ではアメリカ全州で5月の最終月曜日に祝われています。

1915年、カナダ人の従軍医師John McCarae(ジョン・マクレー)は戦場に咲き誇る赤いヒナゲシの花を見て、『In Flanders Fields(ジョン・マクレー著 「フランダースの野に」)』の詩を作ります。
ケシの種は地に落ちても直ぐには咲かずに長い間地中で眠りにつき、何かの原因で土が起こされると芽を出すそうです。第一次世界大戦の戦場となっていたフランドルの野原は兵士によって踏み荒らされ、それが要因となりケシの種が長い眠りから目覚めました。戦場には白い十字架と対比して、まるで血の海のように真っ赤なヒナゲシの花が一面に咲いていたそうです。
1918年、この詩に感化されたジョージア州の大学教授であったMoina Micael (モイナ・マイケル)もまた、ケシの花を詩にこめました。


We cherish too, the Poppy red
That grows on fields where valor led,
It seems to signal to the skies
That blood of heroes never dies.



そして、モイナは戦時中の兵役で亡くなった人達を弔う為に、赤いヒナゲシの花を身につける事を思いつきます。自身で身につけるだけではなく、友人や同僚に売り、その売り上げ金を貧しい軍隊員へ寄付しました。

後にフランスのMadam Guerin(グェラン婦人)がアメリカを訪れた際にこの習慣を目にし、帰国後は赤いヒナゲシの花を手作りし、戦争の孤児や未亡人の為のチャリティーを行いました。
これが各国へ広まり、1922年のメモリアル・デーにVFW(Veterans of Foreign Wars of the United States - 海外戦争復員兵協会)が退役軍人の組織として初めて、国をあげてのチャリティーを行います。

モニアさんが亡くなった4年後の1948年、アメリカの郵政省は「第1次大戦戦没者ポピー基金」の創立者としての彼女の努力を称え、郵便切手を発行しました。





 



世界の至る所でメモリアル・デーを祝うようになったにも係わらず、近年のアメリカでは、メモリアル・デーの本当の目的は徐々に忘れ去られてしまっているそうです。
メモリアル・デーの正しい国旗の掲げ方(夜明けから正午までは半旗の位置、正午に一度国旗を完全に降ろし、その後は日没まで頂点に掲げる)を忘れてしまっている人が増え、パレードをする都市が減り、多くの人が兵役とは関係なしに全ての死者の為の日と思っていたり、またはお墓自体を放置してしまっているそうです。


このメモリアル・デーの本当の意味を忘れないようにと、2000年12月に「National Moment of Remembrance」という決議案が通り、どこにいても、何をしていても午後3時に1分間だけ黙祷をささげ、鎮魂ラッパの音に耳を傾けるように決まりました。

また人々がこの週末を単なる3日間のバケーションと捉えているため、ハワイ州のダニエル・イノウエ上院議員はメモリアル・デーを「5月の最終月曜日」から、本来の「5月30日」に戻すように提案しているそうです。

(「Memorial Day History」参照)



そんな私達はこの日に何をしたかというと、、、 何もしませんでした。(笑)
相方ペアレンツはパレードを見に行ったらしいのですが、相方はパレードがあること自体忘れていました。しかし相方ペアレンツいわく、このパレードも年々規模が小さくなっているそうです。
日本に長く居過ぎたアメリカ人と、アメリカの習慣に身を寄せていない日本人の私達。パレードも見に行かず、黙祷もせず、ラッパが鳴っていたかどうかさえ不明。家で、ゴロゴロと映画を見ていました。完全にダメダメですね。(笑)





 
今日は、イースターです。


* Easter(イースター、復活祭)
キリスト教における最古の、そして最も重要な儀式と言われ、十字架にかけられたイエス・キリストが3日目に復活した事を祝う日です。
英語のEasterは、北欧神話の春の女神「エオストレ(Eostre)」に由来すると言われているそうです。

復活祭は、「春分の日の後の、最初の満月の次の日曜日」の為、その年により日付けが変わる移動祝日です。
西方教会と東方教会では異なりますが、基本的に西方教会(ローマ・カソリック教会やプロテスタント等)は3月22日から4月25日で、今年は今日 4月8日です。

イースターでは、卵とウサギをモチーフとした物をよく見かけます。
卵は、ひよこが殻を割って出てくる為に生命や復活の象徴とされ、キリスト復活のシンボルとされています。
こ のEaster Egg(イースター エッグ)と呼ばれる卵に色をつけたり装飾をして隠し、子供達は宝探しのように楽しむEgg Hunt(エッグ ハント)や、スプーンの上に卵を載せてゴールまで競い合うEgg Spoon Race(エッグ スプーン レース)を行ったり、毎年ホワイトハウスでは、子供たちを招いて卵を割らないように丘の上から転がすEgg Roll(エッグ ロール)を行ったりしています。

ウサギは多産の為に生命や繁栄の象徴とされ、Easter Bunny(イースター バニー)と呼ばれるようになったと言う説があります。また同時に、森の中で綺麗な色をした卵を見つけた子供たちは、ぴょんと飛び出したウサギを見て、ウサギが綺麗な卵を産んだんだと思い、「Easter Bunny がEaster Eggを産んだ」と思ったことからきているとも言われています。
そしてイースターの時には、ウサギの形をしたチョコレートやパンが作られ、友人や家族に贈り合ったりもします。



相方兄の家で、イースターパーティーがありました。
相方パパは残念ながら入院中で、相方ママと相方兄家族、相方兄フィアンセの姉家族、そしてお決まりのブラジル人フレンドたちで、大人13人 子供たち3人の総勢17人です。


相方兄弟、兄フィアンセ、友人




フィアンセ姉妹のクッキング




私はオリーブ&ローズマリーパン




子供達が走り回ってます



美味しい料理をいただいた後は、これまたお決まりのWiiです。
まず始めは、Wiiカラオケ。
色々な歌があるらしいですが、ここにあったものはすべて「Glee」と言うアメリカのミュージカルドラマ TV番組の歌のみ。私はそのドラマを見たことがないのですが、そのドラマでは懐メロ的な曲を歌っているので、私でも知っている曲が何曲かはありました。








前回と同じ 「Venus」 でダンス



 
明日はイースターです。
その為に今日は、相方ママの家にEgg Coloring に行きました。

Easterの説明は翌日に回し、今日は準備の様子を。


 これが 卵色付けセット



 セットの中身




 絵付けの型




 こうやって絵付けします



 指に色がつかないように




 卵たち入浴中




 乾燥中

色のタブレットをお酢で溶かすはずが切らしていたので、水道水を使ったら、色があまりつかなくて薄いです。



 出来上がり!

色があまりにも薄かったので、相方ママがお酢を買ってきてくれました。
色が濃い卵と薄いのの違いは、明確ですね。


所要時間は、1時間半くらいかかってしまいました。
でもこれで、明日の準備は完了です!




 






帰りに相方ママが 「もう子供じゃないけど、良いでしょ?私があげたいんだから」と言って(笑)、くれたイースターのプレゼント












今日は、エイプリルフールですね。

ところでこの習慣はどこから来たんだろう?と思い、調べてみました。
はっきりとした起源は判っていなく、様々な説があるようです。


* 元日 変更説
古代ローマ人や古代ヒンドゥー教徒は、新年始まりの日「元日」をヒラーリア祭(大地の再生を祝う春分の祭)を行う3月25日に近い4月1日または4月1日前後に祝っていました。

紀元前45年、ユリウス・カエサルによりユリウス暦が制定されます。
このユリウス暦は地球が太陽の周りを回る周期を基に作られた太陽暦で、1月1日を年の始まりとし、1年を365日、4年ごとに閏年を置くという非常に正確なものでした。

にも係わらず、時が経っても元日は1月1日ではありませんでした。
キリスト教が蔓延していた中世ヨーロッパでは宗教的に重要な日と関係を持たせる為に、「受胎告知の祝祭」である3月25日を元日とし、聖なる週が終わる4月1日に新年のお祝いをしていたり、イースター(キリスト復活祭)の日を新年の始まりとして祝っていたりしていたようです。イースターはその年によって日付けが変わる移動祝祭日の為、毎年 元日も変わっていました。

このように地域や年によって新年の始まりが違う1500年代頃のヨーロッパの暦制度は、非常に混乱したものでした。

1563年、フランスのシャルル9世がユリウス暦にならい、元旦を1月1日と定めます。この布告は、1564年12月22日にフランス国会の議決を経ています。

しかし、正確に近かったユリウス暦にも、誤差がありました。
1年ごとに11分15秒の差が生じ、暦上の春分日と実際の春分日とのずれが顕著になり、復活祭の日付が合わなった為に改良が必要となります。
これにより1582年、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦を改良し、グレゴリオ暦を制定。
ローマ教皇は政治的パワーは持っていはいませんが、当時主要をなしていたキリスト教徒達に大きな影響を与える事ができます。その為にこの年、「1月1日を元旦とする」という歴史上の変更がなされたわけです。

しかしながら すぐに国民が適応できるわけもなく、4月1日に新年を祝う人々が耐えなかったようです。
古代ローマでは新年にプレゼント交換する習慣があり、そんな旧暦に祝う人達をからかう意味で偽りの用件を送ったりしたことが、エイプリルフールの始まりといわれています。

* この説が一番知られていますが、イギリスにグレゴリオ暦が導入されたのが1752年であり、それ以前にエイプリルフールの習慣がイギリスにもあったという理由から、この説を否定する学者もいるそうです。



* 春祭り説
伝説や物語を信じない歴史家たちの中では、この春祭り説が有力のようです。
大概どこの文化でも、自然界の復活・再生となる春の祭りがあります。
これらのお祭りでは、ジョークや悪気のないいたずらを行ったり、変装したり、または死の世界の冬から生まれ変わりの春へと季節が逆になることを反映し、社会的地位を逆にしたりもされていました。
例えば、使用人が主人に命令を下したり、教会の儀式のパロディとして色のついた粉を投げたり、水を人にかけたりと文化により様々です。

この多くの文化に共通する事が、現代のエイプリルフールの起源になったと考えられています。



* フランス魚説
もう一つ、フランスの説です。
フランスでは4月上旬に、孵化したばかりの魚が豊富にいるそうです。
釣竿をおろせば直ぐにつかまってしまうこれらの魚を、「4月の魚(Poisson d'Avril)」と呼んだそうです。簡単に獲られてしまう愚かな「4月の魚」の大漁を祝うのと一緒に、4月1日に人をかつぐ事が習慣化したという説です。
実際にフランスでは今でもエイプリルフールの事をPoisson d'Avril と読んでおり、魚の形をしたチョコレートを贈り合う習慣があるんだとか。



* イギリス昔話説
イギリスの昔話では、エイプリルフールとの関係を思わせるものがあるそうです。
これは 「ゴサム(Gotham)」という、住民が皆バカであったと伝えられている村での出来事です。

この物語によると、13世紀には「王様が踏んだ土地は、全て国のものになる」という慣わしがあったそう。
ある日、このゴサム村の住人は王様が旅の途中で村を通過するという話を聞き、道を国に取られてしまわないように、どうにか王様が村に入ってこないようにしようと考えます。
これを耳にした王様は、村に兵隊を送りました。
しかし兵隊たちがゴサム村に到着すると、魚を溺れさせたり、屋根のないかごに鳥を入れようとしたりと、非常にばかげた事としか言い様がない光景を目にします。彼らのこの愚かな行動は全て演技だったのですが、みごと騙されてしまった王様は、刑罰にも値しないほどの馬鹿な住人達だと言ったそうです。

それ以来、エイプリルフールの日には、彼らのいたずらを祝う日になったそうです。



* ドイツ議会説
1530年4月1日。この日は、アウクスブルクで政治家たちによる財政に関する会議が行われる予定でした。
しかし時間の関係で、会議は行われませんでした。
多くの投機家達は、会議が行われると見込んで賭けていた為に、お金を失い、笑いものにされる結果に。

これが、エイプリルフールの起源だとも言われているそうです。



* ノアの方舟説 
初期のキリスト教徒は、旧約聖書に登場するノアの方船(はこぶね)に基づいているとも伝えています。
ノアは洪水がおさまったかどうかを知る為に、鳩(初めは鴉とも言われています)を放ちます。しかし鳩はとまる所がなく帰ってきました。これが4月1日と言われています。
これにより、4月1日は無駄な日で、嘘をついても良い事になったそうです。


これらの他に、アジアを起源とする説もあるらしいです。
沢山の説があり、本当のところは分かっていませんが、世界中で4月1日にデマカシのニュースが流れているのは面白い事ですよね。






今日は、先月「絶品パンケーキ」にお供してくれた相方フレンドのコンサートを聴きに、Lexington(レキシントン)の街に行きました。

Lexington は Swampscott から西へ行った小さな町です。今では可愛らしい町並みがありますが、ここはアメリカ誕生の地と呼ばれているところです。それは、このLexington の地が、アメリカ独立戦争(「革命戦争(The Revolutionary War)」とも言います)の発端となったレキシントンの戦いがあった場所だからです。
 

東海岸の一部がまだイギリスの植民地だった頃、イギリスはオハイオ川流域のインディアンの領土を巡ってイギリスとフランスがこれを植民地とするため「フレンチ・インディアン戦争」の真っ只中。
この戦争が長年続いた事により、イギリスは財政危機に陥っていました。その為に
1764年 砂糖法(Sugar Act)
1765年 印紙法(Stamp Act)
1767年 ダウンゼント諸法(Townshend Acts)
などの課税を成立させ、植民地からの税収増を図ります。
これにより益々不満が高まった植民者は、独自にミニッツト・マンという平民組織を作りました。ミニット・マン(Minute Man)とは、1分間で戦闘体制に入れるよう訓練された 普段は農業に従事している植民地の ”農民兵の部隊” のことです。

1775年4月18日、イギリスのトーマス・ゲイジ将軍(Thomas Gage) の耳に植民者が武器を隠していると言う情報が入り、部隊を派遣しました。その頃、その派遣を知った植民者は、武器を移してミニット・マンを招集しました。
1775年4月19日、ジョン・パーカー大尉率いる77名のミニット・マンがバックマン広場で待機する中、イギリスのジョン・ピトケアン少佐率いる7000人の部隊が到着。パーカー大佐はミニット・マンに、「イギリスに対して抗議をしよう」とこちらからは戦う意思のない事を伝えています。その時の言葉が、今でも残っています。

「しっかり立っていろ。撃たれるまでは発砲するな・・・だが、奴らが戦争をしたいというのなら、ここで始めようじゃないか!(Stand your ground. Don’t fire unless fired upon, but if they mean to have a war let it begin here!)」

しかしどこからともなく一発の銃声が聞こえ、それに反応したイギリス軍が発砲し、両軍が交わります。これにより、数名の平民が命を落としました。
これが「1発の銃声が世界を変えた」と言われた『レキシントンの戦い』であり、後にアメリカ独立戦争へとつながっていきました。そしてこの歴史的事件が実際に起こったのが、このLexingtonの街なのです。

因みにこの始めの発砲は、イギリス軍はミニット・マンが撃ったと主張し、ミニット・マンはイギリス軍が撃ったと主張しており、物議は今でも続いているそうです。


ちょっと歴史のおさらいで寄り道しましたが、私達と相方フレンドは、Daikanyama と言うレストランで早めの夕食をとりました。

LexingtonはSwampscottよりもアジア人人口が多く、道を歩いていてもアジア人を見かけます。とは言っても日本人は少なく、韓国人とカンボジア人が多いような感じはしましたが。
このDaikanyama、名前は日本の地名ですがオーナーは韓国人、そしてレストランには日本食+韓国料理+中国料理の全部がメニューにありました。因みに働いている人は、韓国人と中国人のみでした。
そしてこのレストランは、相方と相方フレンドが学生の頃からあったらしく、そう考えるともう20年近くも営業しているって事ですよね。不況で多くの店が閉店していく中、本当にあっぱれです。

相方フレンドは焼きうどんを注文し、私達は握りセットと石焼ビビンバをシェア。私的には、アメリカで食べるアジアン料理にしてみれば味は悪い方ではないと思いますが、なんせお寿司もビビンバも久しぶりだったので、お腹も満足してくれました。
 

食事を終え、私達は会場となる教会へ向かいました。
今日のコンサートはChurch Choir(教会の聖歌隊)で、相方フレンドはそのメンバーとして歌うのです。
実は相方も、相方ママがカトリック教な為に子供の頃から聖歌隊に所属しており、学生の時にはクラシック音楽の合唱団メンバーとしてヨーロッパツアーも行っていました。このフレンドは、その時からの友達です。

無宗教の私は、生で聖歌隊の歌を聴くのは生まれて初めて。
約90分のコンサートで、ただ「ジーザス」と「アーメン」を繰り返しているようにしか聞こえなかったのですが(キリスト教の方、本当にごめんなさい)、ソロを歌った相方フレンドのレベルは素人の私でも分かるくらい、格別に素晴らしいものでした。
それもそのはず、この友人はこれが職業なのです。教会で賛美歌を歌い、時には先生として聖歌・賛美歌を教えたり、ボイストレーニングをするのが仕事です。なかなか歌で生計を立てれる人は少ないので、これは本当に凄い事ですよね。





今日は相方ママとランチに行きました。

嬉しいことに、相方ママは私の事をとても気に入ってくれています。私達のコンドミニアムと相方ペアレンツの家は近く、車で20分もかからない所。相方の仕事の郵便物が両親の住所へ届くこともあるので、2日おきくらいには実家に郵便物を取りに行きます。
そんな中、相方ママは「しばらく会っていないから、一緒にランチしよう」と誘ってくれました。確か、2日前に会ったばっかりの様な、、、???
でもお姑さんに気に入られていると言うことは、嫁として幸せなことですよねっ。

と言うことで相方ママにピックアップしてもらい、Salem(セイラム) という街にある Reds でランチをいただきました。
これまた相方ママも、「これがうちの息子のお嫁さんよ。この子が義理の娘になってくれて良かったわ」と嬉しそうにお店の人に話してくれます。ありがたや~、ありがたや。

このSalemという街は、魔女の街として有名な場所です。
魔女の町ということもあり、魔女グッツや魔法/呪文に使われる道具や呪文の本、占いのお店などが沢山あり、魔女の格好をしている売り子さんも沢山いました。



ところで、何故 Salem が「魔女の街」かと言うと、、、

中世のヨーロッパでは魔女狩りが盛んに行われ、全ヨーロッパで最大4万人が処刑されたと言われていますが、アメリカでも魔女狩りは行われていました。

1692年、アメリカのこのSalemの村(現在のDanver)で、牧師さんの娘と姪を筆頭に多くの女の子達が奇声を発したり、奇行するという症状が発生しました。それを診察した医者は、魔女によって魔術がかけられていると診断を下します。
大人達は娘達を治したい一心で、女の子達に誰が呪文をかけたのかと聞きだそうとします。すると次々と彼女達から多くの名前があがりました。

これにより200名近い村人が魔女として告発されました。そのうち30名が死刑を宣告され、19名が絞首刑、1名が拷問中に圧死、5名が獄死しました。(「セイラム魔女裁判」) 
この実際に起こった事件にちなんで、現在では魔女の街といわれているそうです。

現代の世の中では魔女(またはその家系)の存在は認められてはいるものの、魔術や妖術の存在は信じられておりません。
そしてこの村の娘達も呪いがかけられたのではなく、ピューリタンによる強制抑圧の為に起こった集団ヒステリー、または麦角中毒症、嗜眠(しみん)性脳炎、もしくは単に大人たちの注目を浴びる為の行動や自分達の悪事を隠す為の行動だったとも言われています。





ウィノナ・ライダー主演の「クルーシブル」(1996年 THE CRUCIBLE)がこの事件について描かれた映画なので、ご興味のある方は観てみて下さい。







<ちょっとしたトレビア>
因みにSalem は魔女の街の外観を保つ為に、文明の象徴の一つでもある電柱や電線を全て地下に埋めているそうです。その為に街は昔の風景を保ち、そして空がとても広く感じます。



色々と見てまわっているうちに相方が合流し、近くの港 Pickering Wharf へお茶をしに。
私達の住んでいるSwampscott やこのSalem 周辺のカフェやお店は、冬の間は夜の9時まで(お店によっては5時のところも)には閉まってしまいます。でもこの Jaho というカフェだけは、この辺で唯一11時まで開いているらしいです。冬の間は、午後3時過ぎには日が落ちてしまい、殆どのお店も9時には閉まってしまう。皆、冬の夜は何をして過ごしているんでしょうね、、、? テレビ鑑賞のみ!? 今年の冬は、春の訪れがやけに待ち遠しく感じます。




 
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